「あぢぃ」
空からは殺人的な熱気が降り注ぎ、アスファルトが溶けたように、陽炎が舞う。
長年住み慣れた片田舎の小さな駅前のロータリー、俺はそこでバスを待っていた。
首を締め上げるうっとうしいネクタイは抜き取り、コーヒーの空き缶を灰皿代わりに煙草を吸う。
「ったく、冷夏ってのはどこに落ちてるんだ・・」
俺は憎たらしく晴れ上がった空を見上げた後、目を空き缶に戻すと、小さな黒い靴を履いた足が見えた。
「ねぇおじさん、みーちゃん見なかった?」
女の子の声。
小さな黒い靴から目線を上げると、赤い髪留めで黒髪をポニーテールに纏めた、小さな顔が見えた。
「ねぇおじさん。」
「おにいさんだ。」
「みーちゃんしらない?おじさん」
最近の子供は目上に対する言葉を知らないらしい、と昔じぃさんに言われた事を思い出す。
じぃさん俺も同感だよ。
「みーちゃんって、お友達?」
俺は膝を折り、女の子と目線を合わせる。
小学生低学年ぐらいの可愛い女の子。
グレー系のシャツにスカート。親のセンスはよろしくない。
「ううん。」
女の子は首をぶんぶんと横に振り、そして突然道路に飛び出し、走り出した。
「っておい!」
偶然通りかかった不幸な軽トラックに急ブレーキを踏ませ、女の子は道路の向こう側に走り去る。
放っておく事も出来ず、俺は後を追った。
赤い髪留めと黒髪のポニーテールは、意外に足が早かった。
くそう。
何の因果で汗だくになりながら、女の子を追わなきゃならんのだ!
ひょこひょこ揺れるポニーテールに追いつき、肩を掴んで振り向かせる。
「こら!飛び出したら危ないだろ!」
「でも、、みーちゃんがあっちにいるんだもん」
「は?」
辺りを見回す。
人影は無い。
「何処にいるって・・」
と女の子を見ると、口を尖がらせてぐずぐずと泣いていた。
「だって。いるんだもん。」
思わず俺は、空を見上げる。
相変わらずじりじりと熱線が降り注ぎ、憎たらしい程の青が満たしていた。
くそう。
これじゃどう見たって、俺が悪人じゃねぇか。
俺は携帯を開き時間を見る。帰社時間までには余裕がある。
「どっちに居るんだ?」
「あっち。」
と女の子が指を挿す方向。
その方向には細い道が分かれ、その先にはちょっとした森があった。
「はぁ…おっけ。一緒に行ってやるから泣くな。」
「うん。おじさん。」
「おにいさんだ。」
細い道を、女の子と手を繋いで歩く。
女の子の機嫌はすっかり良くなり、ハミングを口ずさんでたりしていた。
細い道は、それでも車1台だったら通れる幅を保ち、くねくね曲がりながら先に進む。
両側は木の塀だったり茂みだったりしたが、もれなく朽ち果てた感じを受ける。
黒く塗られていたであろう板は、所々が剥げ地の色が見えていた。
伸びまくった木々からは、セミの声がノイズとなって響く。
そして木の葉の隙間からは、青い空が。
デジャブ。
俺はふと、足を止めた。
「どうしたのおじさん?」
俺は暫く記憶を辿り、そして我に返り、
「…いや、なんでもないよ」
と答え、再び歩き出した。
そうだ。
この風景は。
俺がガキの頃、じぃさんに手を引かれて歩いた道だ。
「早くいこ!」
女の子に手を引っ張られながら、考える。
俺はあの時、大事なものを持っていた。
確かに持っていた、はずなのに。
今は、思い出せない。
朽ち果てた道の中に、場違いな物を見つけた。
「休憩しよう」
文明の利器。自動販売機。おあつらえ向きに屋根つきのベンチまである。
「何が飲みたい?」
「こーひー」
「それは大人だけの飲み物だ。」
「えー。」
俺は、立ち並ぶ缶の中にビールが紛れ込んでいない事を2度確認し、溜息を付きながらコーヒーとオレンジジュースを買った。
「開けれるか?」
「うん。」
足をぶらぶらさせてる女の子にオレンジジュースを渡し、俺はコーヒーの缶を開ける。
女の子は缶を足に挟み、必死になって開けようとしていた。
俺はコーヒーを口に運ぶ。
これがビールなら、完全復活なのにな。
女の子はまだ悪戦苦闘していた。
俺は腕を伸ばし、缶を開けてやる。
女の子はその缶を両手で掴み、美味しそうに飲み始めた。
…なんだったんだろうなぁ。
俺は意識の隅に引っ掛かっていた、疑問を引っ張り出す。
じぃさんに手を引かれ、この小道を歩いていた時。
俺は何を持っていたんだろう。
とても大事な物だと、思っていたのに。
かけがえの無い物だと、思っていたのに。
その想いだけしか、思い出せない。
そのうち小道は、鳥居に辿り付いた。
森に見えたそれは、ちょっとした小山になっていて、鳥居の向こう側に石畳の階段が見えた。
「はやくー」
てててっと駆け上がった女の子は、石畳の途中でこっちを向いている。俺はといえば、
「へいへい」
とだらだらと階段を登る。
登りきったその先には、古ぼけた神社があった。
「あぁ。そういえばここに神社あったなぁ…」
だがこんな真夏に人が居るわけもない。
遊びに行こうとせがまれて近所の神社に来た親子、って図柄だな。
と横を見ると、女の子はすたすたと獣道に入っていく。
俺は一人肩をすくめ、その後に続いた。
突然、ひらけた場所に出た。
少し小高いだけで、この田舎を見渡すのには十分。
まだら模様の低い屋根と、緑の田んぼで構成された俯瞰図。
見上げると、一面に青い空。
みー、という蝉のノイズが、この場所を日常から切り離していた。
そのひらけた場所の隅に、女の子はしゃがみ込んでいた。
肩越しに覗き込むと、そこには小さな木の板があり、
「みーちゃん」
と、へたくそな文字で書いてあった。
「みーちゃんって、猫?」
女の子の赤い髪留めが、こくん、と動く。
そうか。
俺は煙草を取り出し、1本取り出し、口に咥えた。
そうだな。俺もあの時、死んだ猫を埋めに…
煙草に火を付ける所で、動きが止まる。
あれ、あの黒猫、名前は、
風が、流れた。
ライターの火が消え、はっとして女の子を見るが、居ない。
辺りを見回しても姿が無い。
足に柔らかい感触があった。見下ろすと、
「なぁ〜」
と頭を擦り付ける、赤い首輪の黒猫がいた。
俺は呆然と、その黒猫に手を伸ばす。
黒猫は、俺の手を舐め、
「なぁ」
と一声残し、茂みの中に姿を消した。
蝉のノイズが耳に戻る。
携帯が震えていた。
会社からだと確認して、そのまま近くに放り出し、俺は茂みに座り込んだ。
ああじぃさん。思い出したよ。
あの時。
俺は飼っていた猫が死んで、その猫を埋めに、ここに来たんだ。
ぐずぐず泣く俺の手を引きながら、言ってたな。
また会える、って。
すっかり忘れてたよ。
じぃさん、あんたは正しかった。
女の子がしゃがみ込んでいた場所、そこで見たはずの板は、無くなっていた。
あの時。
俺はここに猫を埋め、
へたくそな文字で書いた板を、そこに立てた。
「みーちゃん」と書いた、その板を。